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YESTERDAY WAS DRAMATIC, TODAY IS OK.
The Moonスタッフよりオススメのインテリアや日々のあれこれ

西洋骨董*買い付け*見聞録*18

とは言え、元来、運が良くツキがある私は、まあ大丈夫だろうと思いながらぶらぶらと歩くことにした。運が良いと思うのにもそれなりの根拠があった。シドニーで一人で暮らしていた頃、持ち金と、巨大トラックからの荷下ろしの仕事をたまに行っていたので、とりあえず食える状態であったが、プロレスラー並みのオージーに混じっての仕事はきつかった。そして、「ユ ア ファイアー!」
 
 
しかも、1982年 オーストラリアは5万人の移民を受け入れたのだ(正確な数字ではないが)。ジョブセンターに行っても仕事はなく、金もどんどんなくなり、2週間程、冷凍野菜(人参・コーン・インゲンをカットした一応食品。当時1Kgで1ドル位 )と卵を1日2食としていたが、とうとう1週間分の家賃35ドルを支払うと残り5ドルという状況になってしまったのだ。しかし、自分は 運が良くツキがある と妄信している私はその5ドル札を握りしめてスーパーに行き、買える限りのオージービーフを買った。
 
 
はっきり覚えていないが、おそらく700~800gぐらいだったと思う。そして、全て食べた。
そして、いざ! ジョブセンターへ。
 
 
いつものように求人カードが貼ってあるボードの前に行くと、やはりカードはほとんどない。その時、後ろから Yoshi と呼ばれたので振り向くと、何故か私に対してとても親切な ゲイのジョブセンター職員 が手招きをしている。
 
 
行ってみると、「まだカードにしていない入ったばかりの仕事あるわよ。フレンチレストランのキッチンマン。どう? やる? 電話しようか?」 「オフコース プリーズ」
そして彼は電話をした 「日本人ですけど英語ペラペラ。レストランでの経験もあります。
はい。では、すぐに行かせます。」「OKよ。直ぐに面接してくれるそうよ」と住所を書いた紙を渡された。
英語ヘラヘラだし、スカイラークで皿洗いしかしたことないし。
 
 
「頑張ってね」と 投げキッスだ! 何故こんなに親切なのだろうと思いながら、住所のノースシドニーへ。
Tower French に入り面接の件をスタッフに伝えると、すぐにオーナーが出てきて「私は、ハッセン」「Yoshi です」「OK」と言うなりエプロンを渡された。
キッチンに連れていかれて、シェフと他のクックを紹介され「シェフの指示に従って」と。
いきなり ジョブ ゲット!ランチタイム終了後、いわゆる マカナイタイム。 176bmおそらく60kgあるかないかの私は、金なく・食えなく・栄養失調と思われたのであろう、「食え食え」と、その後食に困る事は無かった。当時のオーストラリアドルは275円だったので約1400円のオージービーフの御かげか・投げキッス の御かげか?
 
 
と運とツキのある私にとっては、見渡す限り動くものがなく、音といえば、風の音と チーと鳴きながら飛ぶ虫の声だけの砂漠の景色がとても穏やかに感じられた。
*チーの虫の事は後記にて。
 
 
そんなこんなで、ぶらぶらすること1時間。何気なく振り向くと、
陽炎の中に1台の車の姿が。音はまだ聞こえない。しばらく見ているとやっと音が聞こえてきた。よっしゃ!と見つめている中、車がドンドン近づき、そして、止まった。
「やっぱり。俺。持ってる!」
 
 

続く

西洋骨董*買い付け*見聞録*17

私も、多分に漏れず、ヒッチハイクで旅をした。それほど長い期間ではなかった。
2か月である。シドニーからケアンズの少し上にある ポートダグラス という小さな港町までの往復6000km位。日本列島が約3000km。その時の事を少し書いてみよう。
 
 

ヒッチハイクと言っても、バスや電車にも乗ったし、キャンプだけでなく、ユースホステルにも泊まった。ただ、ユースホステルは、あまり居心地が良くなく、主にキャンプ場を利用した。ユースホステルでは、英語圏の白人であるカナダ人やアメリカ人がグループを作り大騒ぎしていて、英語圏でない白人や東洋人はあまり楽しくない状況であったのだ。
何処かで会ったあまり英語が話せないヨーロッパ人が、「2度とユースホステルには泊まらない」と言っていたことを覚えている。
 
 
ブリスベンから北に向かっていた。ブリスベンからの距離はあまり覚えていない、おそらく200~300km位の場所であったと思う。すでに夕方4時頃だったが、砂漠の中の左右分かれ道で降ろされてしまい、挙句の果て、見渡す限り車が見えない。クインズランド州はヒッチハイク禁止の為、たまに通るトラックは乗せてくれない。私の行きたい方向は右であったが、別に左でも良い事は良いので、ここで待つか、右に歩くかの選択に迫られていた。
 
 
歩くことにした。特別な理由はない。1時間ぐらい歩いたところで見つけた、標識には次の町までの距離 100km 。ガ~ン! 100km 歩くと何時間?42.195km普通の人が走ると? 5時間?6時間?では、歩くと?野宿だ。ディンゴ(オーストラリアの野生の犬)・毒蛇・毒クモ・よく見かける1メートル位のトカゲ。映像が頭を駆けめっぐった。
ココでの野宿は。ヤバ!!
 
 

続く

西洋骨董*買い付け*見聞録*16

前回のジャズクラブにまつわる面白いエピソードがまだある。
 
 
ベイスメントを出た後、一人だけ方向が違う私は、ボスからタクシー代を貰いタクシーで帰る。スティーブはバイク。かなり酔っているので誰も後ろに乗らない。残りの2~3人は方向が同じなので、これまたかなり酔っ払ったボスが1人づつ家まで送るのだ。
ある日、ボスが私にこう言ったのである。 
 
「Yoshi 車運転できるだろ。日本のライセンス持ってるだろ。」
「YES」 
 
「では、来週にでも俺と一緒にシドニー警察署に行こう」
「Why」 
 
「署長と俺は、友人なんだ。昨日、一緒にゴルフをしたときに聞いてみたんだよ。運転免許証の事。お前の。そうしたら、連れてこいと言うんだ。パスポート持って。直ぐに発行してくれるそうだ。オーストラリアの運転免許証。試験も無だぞ。やったなお前」
「What‼」
 
国際免許もってるし。いらん。
ベイスメント の帰りの運転手にしようとしているのは見え見えだ。どの様な理由を付けたかは記憶にないが、その後、のらりくらりとかわし続け、タクシー代をありがたく頂くことはその後も変わらずであった。
それにしても、コレ合法 。現在は知らんが、当時は、ランチタイムになると、サイレンを響かせて走る消防車やパトカーがそこらじゅうを走っていたので。おそらく グレー!
 
 
私の休みは、日曜日と月曜日。日曜日は、グレッグ達も休みなので、皆で海に行ったり、バーベキュをしたり、テキーラのボトルが空になるまで回し飲みをしたり。まさに、アホ・ボケ・マヌケ。
月曜日は、同じく月曜日休みのアートが誘いに来て、ボンダイビーチに面したパブでビール&プール(ビリヤード)。
パブなどでビリヤードをやる場合、台が空いていれば問題なくコインを入れて球を出し始める。しかし、誰かがプレー中の場合は、まず、コイン挿入口付近にコインを置く→ プレーが終わる → 彼らがまだ続けたい場合 → コインを入れる → ダブルスを行う → 勝った方が続行 → 負けた方がビールを奢り退場。私とアートはどうだったのだろう?奢る時の方が多かったのだろうか。記憶があいまいだ。私には、ネガティブな記憶を消し去る 特技があるので・・・・。
 
 
夕方から英語クラスでみっちり3時間。(中学や高校でもあの様な授業してほしかった。)英語クラスに来ている移民の中には、共産圏からの亡命者もおおくいた。
ロシア・ポーランド・ベトナム・シリア・・・・。そのほかにも、ドイツ・タイ・エジプト等々、でも、休み時間は、それとなく アジア・中東・ドイツ・東ヨーロッパのグループに分かれてコーヒーを飲みながら話をしていた。しかし、中東は2~3グループに分かれていたように思う。その頃は、よく分からなかったが スンニ派・シーア派等だったのであろう。又、アジアは3グループ 私を含め3~4人の日本人・マレーシア人・インドネシア人・タイ人・香港人のグループとベトナム人のグループ・中国人のグループ。
ドイツ人もドイツ人だけだったと思う。東ヨーロッパの人たちはどうだっただろうか?
ただ、暗い表情で小声で話していたことしか覚えていない。
 
このクラスで知り合った インドネシア人とマレーシア人とはよく一緒に釣りに行ったものだ。
 
1982年  自分がアジア人であること を自覚
 
 
続く

西洋骨董*買い付け*見聞録*15

永らくお休みを頂いておりました、店主ブログ 再開することにしました。
私の 店主ブログ のファンと称する方から、下記の様な激励を頂き、まさに背中を押されるように再開に至ったわけです。
 
 
ファンの方からの激励文
「ワレ。何さらしとんじゃ!わしはな、ワレのブログのファンや。前のから随分間あかしとるやん?早う次書かんかい! アホ・ボケ   よろしゅうな。熱烈なファンより。」
 
という事で、震える手でキーボードをたたいております。
 
 
買付け談話に少し飽きてきたと思いますので、今回から数回は、私がシドニーでぶらぶらしていた頃の 見聞録 となります。
 
1982年 私は、シドニーのボンダイビーチから丘上に伸びるフランシスSTにカナダ人のグレッグ・同じくカナダ人デイブとニュージーランド人デビーのカップル・そして私の4人でシェアをしていた。ボンダイビーチまでは歩いて1分位。サーファーとまではいかない私とデイブも波の低い日は、波乗りをしたりもしていた。(波の高い日はロコのサーファーから今日はお前たちには危険だと言われ、入らせてもらえなかった。おそらく 邪魔という事だろう。)
 
職場は、ノースシドニーに在った タワーフレンチ。ボンダイビーチ沿いのバス停から バスに乗り、ボンダイジャンクション➡ピットストリート➡ノースシドニー。
11AM~11PM 完全なブラック!とはいえ、飲食は自由(11PMにはスタッフ全員が出来上がっていた)。3PM~7PMは自由なので、YMCのジムに行ったり、ヨガ・英語クラス(移民用なので無料、移民でもないのに何故入れたのか?記憶なし)。にも通っていた。
 
又、土曜日の閉店後は、ボス・スタッフ数名・スタッフの友人でシドニーのハーバー近くの倉庫街にあった ベイスメント という洒落たジャズクラブにボスの車とスティーブのバイク2人乗りで繰り出すというのが何となくの決まりであった。ボスの奢りは勿論、帰りのタクシー代まで出してくれるという大判振る舞い。まあ。意外とホワイトか!
 
このジャズクラブは、当時としてはかなりクールだった。外見はぼろい倉庫、入り口も普通の鉄扉。鉄扉を開けると、ゴリラの様なセキュリティスタッフがいてその奥にこれまた小さな、受付。入場料を払いその奥にあるやはり鉄扉から店内に入る。店内は2フロアで2階は食事メイン、1階はバーメイン。ステージは1階にあり2階からも見えるようになっていたと記憶する。タワーフレンチに以前いたスタッフが、何故だかはわからないが、この店では いわゆる 顔 であったので、我々も入場料無料・常に良い席を確保してもらっていた。
 
今思い出すと 何故 となってしまう。いつも好待遇の私たちに興味を持ったのか?
 
店の看板シンガーである ココ(ニューヨークから来ていた黒人ジャズシンガー)がステージの合間に、我々のテーブルに来て一緒に酒を飲むという事も。度々あった。
 
東京に興味があるというココが東京や日本の事を、私に尋ねてくることもよくあったが、ココの英語は非常にアクセントが強く、私の英語力では、ほぼ理解できず、英語はネイティブに話せるはずのボス(フランス人)に 「なんだって?」と聞いてはみたものの「俺にもわからん」であった。その場合、オージーのスティーブかダイアナが 通訳? をしてくれた。
英語➡英語 ややこしい。
 
 
続く

西洋骨董*買い付け*見聞録*14

パイン材家具 後半
 
イエスタデイパインの家具が入荷したのはそれから3か月位であったと記憶している。

 
品質は中の上・デザインは上の中・価格はお買い得価格となれば、当然売れるわけで一か月もたたずにカップボード・テーブル・チェア・チェスト等々、約100点あまりがほぼ完売となり、自らがイギリスまで商談に出向いたと豪語していた御大将も大喜びで直ぐに追加発注をするようにと、指示してきた。売れ筋や設定価格も大方分かったのでこれで、パインの家具に関しては安泰だなと、一安心であった。
 
早速、20Fコンテナ分(約100点)のテーブルやチェストなどの体積を計算してコンテナに無駄なスペースがないようにアイテムと個数を決めていくという作業に掛かった。
ご存知と思うがコンテナに10点積んでも100点積んでも海上料金などの経費は同額であるので出来るだけ積んだ方が、利益率が高くなるのだ。
 
又、実際に販売してみた中で分かった、デザイン・サイズ等の改良点も洗い出し、先方に伝える必要もある。作成した発注書を、イエスタデイパインとスチュアートにFAXにて送信。
しばらくの間、それに関しての連絡は、イエスタデイパイン・スチュアート共になし。
特に気にもしていなかったが、発注後、2週間位経ってから、スチュアートから電話が入った。
 
 
「イエスタデイパインが税金がらみのトラブルで倒産しました。」
 
 
「え。嘘。本当。」ガ~~~ン!!!!!
 
 
ビールを飲みながら1969年ウッドストック最高のギタリストJHについての裏話を聞いたり、秘蔵の写真を見せてもらったり…等々。俺の、俺の・・・どうしてくれる!!!
 
 
パイン家具その後に続く

西洋骨董*買い付け*見聞録*13

パイン材家具 中半
 
イエスタデイパイン訪問の事を、我らが御大将 社長 に報告したところ、俺も行くとなった。

 

私と他のスタッフは先にイギリス入りしてアンティークの買い付けを終えたタイミングで御大将が現地入りして一緒に イエスタデイパイン を訪問とのスケジュールになったのだが、我らが御大将は実にわがままなため、ロンドンでのホテルは自身で選択してもらうことにした。

 

というのは、前回買い付けにの一部に同行した 御大将 はそこでもわがままぶりを発揮し、非常に面倒くさかったためである。ロンドン市内のごく普通のホテルに宿泊中の私・スタッフ1名と合流した御大将であるが、翌日には、ベットの硬さが気に入らないとか、枕が何たらと言い出し、そのホテルを自分だけチェックアウトして他のホテルに移ってしまったのである。なんやかんや言い訳をしていたが、要するに わがまま なのだ。

 

とは言っても我々にも問題がなかったわけではない。御大将がホテルに到着するであろう時刻にホテルの受付の前で 御大将 を待ち伏せし(その頃は携帯がまだ一般的でなく、この様な場合は待つ・探す以外に方法がなかった)そのまま、高級な韓国レストランに連れて行き心行くまで焼肉を食した。御大将はほとんど食べていなかったと思うが 私30歳・スタッフ20代後半 高級なカルビ・・・等々 いくらでもいただけるのは当然であろう、しかも、遠慮 の文字が辞書にない2人はとにかく食べまくり・飲みまくった。

 
因みに、御大将は酒を飲まないため、おいおいまだ飲むのか!とかブツブツ言っていたが当然無視である。お勘定はどうだったか、10万円は超えていなかったであろう。

 
そして翌日は、ドレスコードとまではいかないがジャケット&ネクタイはしてないと入れてもらえない老舗のシーフードレストランにも行った。ここは、20代後半のスタッフがロブスターが食べたいと言い出しスチュアートに尋ねると、この老舗レストラン が良いだろうとなり、4人で行ったのであるが、サービスやインテリアは素晴らしいのは当然であるが、お値段に対しての 味 はイマ3 であった。3分の1のお値段ならと思うような味である。お値段・・・?勿論、4人なので10万円では収まらない。
 
御大将のわがまま話はこれ位にして、そろそろ本題に入ろう。
 
 
イエスタデイパインの工場兼事務所はロンドン郊外の山間の村にあった。おそらく車で1時間ぐらいだったと思う。御大将はスチュアートと共に、私とスタッフは、はっきりは覚えていないが、レンタカーで他所を数か所回ったのち現地で合流だったように記憶している。
 
イエスタデイパインの工場兼事務所は古い教会を使用しており、外観だけでも我々の期待は高まった。そして、商品を前に商談の開始。価格と品質のバランス、日本サイズへの変更JubileeMarketのオリジナルデザインの製作、注文からコンテナ積み込みまでの日数、支払に関して・・・・等々。双方が満足いく商談がまとまり、1時間ぐらいの内におおよその発注アイテムと数量を私が算出するとなったため、イエスタデイパインの社長と私が打ち合わせを始めたのだが、他の3人は特にすることが無く、それほど広くない工場見学も直ぐに終わり、予想通り、退屈した わがまま御大将 が近くの町にでも行こうといい出し、一人仕事をしている私を残して3人で何処かに行ってしまい、これまた予想通りしばらく帰ってこなかったのである。
 
打ち合わせが終わった私とイエスタデイパインの社長(今後H氏と表記)は3人が戻ってくるまで、色々な話をした、勿論、全内容などは記憶してないが、一つだけ驚いたことがあった。
H氏が家具製作の会社を始めたのはごく最近でその前は、全く違う仕事をしていたという事であった。その仕事はロックグループの ロードマネージャーだ だったという。
 
*私は詳しくないが、コンサートツアーの段取りなどを行うとの事。
 
そして、10代の頃よく聴いた あの、あのグループの ロードマネージャーもしていたという。
 
*諸事情があり名は伏せるが、1696年のウッドストックにて伝説のパフォーマンスを行った、あのギタリスト率いるグループである。
 
私は、驚き・喜び・興奮して、次回来訪時にH氏の自宅に行き、当時の写真などを見ながら、裏話を聞かせてもらうという 最重要ミッション と思われる約束を強引に交わしたのである。
丁度その頃、何やら満足げな御大将たちが戻り、「終わった、どう、完璧」と言ってきたので、私も「はい。完璧です」と答えたのだが、私の言う 完璧 とは 最重要ミッション の事を示しているのは言うまでもないことであろう。
 
 
後半に続く

西洋骨董*買い付け*見聞録*12

パイン材家具
 
私の所属していた吉祥寺のインテリアショップ MIYAKE が1991年3月3日に OPEN した Jubileemarket は、イギリスアンティーク家具・アンティーク雑貨・直輸入雑貨・リプロダクションパイン家具・英国家具オールドチャーム・・・・など。を扱うイギリススタイルのアンティークショップとのコンセプトでスタートした。
 
故に、1990年秋ごろから本格的に商品集めが開始したため、私は、2週間イギリス・2週間吉祥寺・又、2週間イギリス・2週間吉祥寺…続く。と、常に時差ぼけの生活をしばらくしていた。結構きつかったように記憶している。
(*ちなみにJubileeMarket は私の命名。)
 
1989年から始めたアンティークの買い付けもその頃にはある程度慣れてきていたので順調であったが、思うように進まなかったのが リプロダクションパイン家具 の仕入れ先の確保であった。
(*リプロダクションパイン家具:この場合1850年~1900年のビクトリアンスタイルのパイン家具を再現して製造されている家具の事。)
 
相棒のスチュアートと共に情報を入手してはその会社を訪問してみるのではあるが、価格や品質等々、コチラが望む商品を見つけることが出来なかった。
しかし、ある日、いつものようにイギリスのインテリア雑誌の広告欄をチェックしていると イエスタデイパイン と何とも響きの良い リプロダクションパイン家具メーカー の広告を見つけた。
 
早速、スチュアートに連絡を取ってもらったところ、日本には輸出したことは無いが、大いに興味があるとの返答を得た。
日本に輸出したことが無いという事は、コチラにとってはとても良い事である。
直ぐに訪問することを告げた。
(*インターネットが無かったこの時代、現地のインテリア雑誌の広告欄や記事内のショップ・メーカーの中からコレはと思うところに、「当社は東京でインテリアショップを数店運営しており、又、卸も展開していく予定であり、御社の製品に非常に興味があるのでカタログを送って頂きたい。」と片っ端から FAX を送ってカタログを入手して取引を開始する事も多くあった。)
 
 
イエスタデイパイン訪問 続く

西洋骨董*買い付け*見聞録*11 -【番外編 コーヒーブレイク】

【今回は、いつも更新している「西洋骨董・買付・見聞録」の番外編です。】

 
今回は、コーヒーブレイクタイムとして国内の骨董市に出店したときの国内版見聞録とします。西洋骨董・買付・見聞録に関しては、話が尽きることが無くかなり長丁場となりそうですので、ぽつぽつとコーヒーブレイクやらハッピーアワーを入れていこうと思います。
 
私は、月に1~2度ぐらいのペースで骨董市やら蚤の市などに出店しております。
但し、その様な市に出店しだしてまだ3年位と経験の浅い新参者でもあります。
私は同じアンティークディーラーと言っても、骨董市などに頻繁に出ている 骨董業者の方々 と少し違ったスタンスで仕事をしていました。
どう違うかというと、アンティークをあくまでもインテリア・雑貨の中の アンティーク との位置付けで売買していたわけです。
インテリア・雑貨の流行りに合わせて行く、もしくは流行を創るのが私の仕事でした。
ですから骨董市に出るよりインテリア・雑貨の展示会に出展して全国のインテリアショップや雑貨屋さんに卸売りをしていましたし、ショップでも一般の方々に交じり、多くの同業者やインテリアショップバイヤーなどが仕入れに来ていました。
現在は今まで私が主戦場としてきたスタイルから離れ、私が目指す本来のアンティークディーラーになるべく修行中といったところです。
どちらのスタイルが良いとかではなく、対象とする顧客の違いであり、カッコつけた言い方をすればマーケティングの違いでしかありません。
何故、マーケティングなどとカタカナが出てくるかと申しますと、今回の国内版見聞録に深いかかわりがあるからなのです。
 
私は、前述の通り 骨董市 において新参者ではありますが、骨董市・蚤の市がだ~い好きなのです。理由は簡単。骨董市こそ 骨董オタクの聖地 。売り手も買い手も強者揃いであり、私にとって出店料は 聖地への入場料にほかなりりません。
あれは、1年数ヶ月位前と記憶しています。都内のある骨董市で、とてつもない強者先輩にお会いしたときの話です。(実話)
 
その日、私の売り上げはいつも通り 可もなく不可もなし と問題ない上に多くの強者共と火花を散らすことに満足しながら、近くのコンビニまで行くべく、会場内を歩いていたところ、一人の大先輩(70代)が多くの手裏剣を店先にならべているのを見かけた。
年齢・風貌・温和な表情の奥に光る眼光、全てにおいて 強者 を体現した様な先輩であった。新参者である私は、面識のない大先輩に対して非礼無き様、手裏剣 拝見しても宜しいでしょうか?と声をかけてみた。おお。と先輩。ありがとうございます。私。
そこには、時代劇で忍者が使っている様な各種の手裏剣と刀に付ける短刀型の物が全部で30点位はあったと記憶している。
 
 
凄いですね。全部当時の物ですよね。
 
いやいや これだけは現代物なんだよ。
 
あっそうですか。それにしても沢山お持ちですね。いつもこんなに沢山出してられるんですか? と私。
 
いつもは、こんなに持ってきてねーよ。今日は特別なんだよ。 先輩。
 
お得意が来られるんですか。
 
う~ん。ほら。今日さ。ここで 古武道の大会 あるだろ。
と先輩がイベント会場を指差した。
古武道の大会を見に来る外人さんも多いと予想されるでしょ。ほら。そういう人たち
忍者とか侍とか好きじゃない。ね。
 
あ~。そうですよね。そうだ。そうだ。
 
流石の先輩も 強者 の表情を崩して にやり。
 
 
ありがとうございました。勉強になりました。
とお礼を言ってからコンビニ方面に歩きながら 流石は先輩だ、情報収集・分析・対処
完璧なマーケティングだ。それに比べて、俺はどうだ。強者共に押されてるじゃないか・・・
・・・・・・・・。と先輩に対する賛辞と自分に対する叱咤を心の声でブツブツと。
 
その時である。私は少し離れた壁に KOBUDOU との文字をみつけた。そこには、大会の告知らしいポスターが貼ってあり、内容を詳しく確認すべく近づいて行った私は、衝撃の事実を知ることとなった。ポスターには本日開催のイベントの告知が。
 
 
ロックバンド KOBUDOU のコンサート 18:00 開場
 
 
夏草や強者共の夢の痕・・・・・・・・・・・・・・・・・・。先輩・・・押忍。

西洋骨董*買い付け*見聞録*10

後編
 
前編において、オーク材家具を揶揄した内容に感じた方もおられたと思いますが、けしてそのようなことはありません。
 

何故なら、私自身はオーク材のどっしりとした雰囲気や手触りが大好きで、我が家のダイニングテーブル・作業場においてあるサイドボード・そして私が座るアームチェア(一人掛けソファ)のアーム部分もオーク材です。全てが1930年代の いわゆるシッピングファーニチャ です。すでに15年以上(サイドボードは30年位)使用していますがとても気に入っていますので買い替える気はありません。ちなみにダイニングチェアーは1890年代のマホガニー材です。こちらもお気に入りです。
 
あくまでも、1990年代の日本におけるアンティークブームの中での認識とイギリスでの認識の違いをご説明したまでです。
 
1930年代の家具がアンティーク扱いされていなかった証拠として参考になるのが、MILLER’S ANTIQUES PRICE GUIDE (画像参照)です。念のため1989年版と1993年版を見てみましたが、やはりシッピングファーニチャ達は載ってませんでした。
 


 

17世紀のオークテーブル(画像参照)が目安250万円前後(1990年頃のレート)とあります。
但し、これはかなりコンデションの良い物の場合であり150万円位でもよく見かけました。それにしても300年位前のしかも十分使用可能な家具が200万位とは、お安いのでは?(ご購入ご検討の方、ご相談にのりますよ)
 
1990年代までシッピングファーニチャと称されていたオーク家具も今ではアンティークの仲間入りをしたと言って良いのではないでしょうか。
ご興味のある方はDrewleafTableとかオークサイドボードと検索するとかつてのシッピングファーニチャ達がご覧いただけます。
 
先日、私が代表を務めるアンティークディーラーズクラブのショップ名(現在は実店舗はありませんが)TheMoonのロゴ(画像参照)のデザインをしてくれたパリ在住の日本人デザイナーと食事をしていた時に話の流れの中で彼が、ガレとかドームって日本の家屋に合わないと思うんですけど?と言ったので、それらを買う人達は皆ガレやドームが合う家に住んでいるに決まってんだろ!!!と私。これも揶揄ではありませんよ。
 

 

 
                                  では、また。

西洋骨董*買い付け*見聞録*9

前回まで、私がアンティーク家具・雑貨の輸入・販売をするに至った経緯を書いてきました。
今回からは、時系列をあまり気にせずに1989年からの買い付け時に見聞したことを中心に書いていこうと思います。西洋骨董・買付・見聞録 冒頭にも記述しましたが、あくまでも私の記憶・主観であることを念頭に置いて読んでください。そうでないと、「ほんまかいな」とか、「あほくさ」などと関西のおっちゃん・おばちゃんが頭の中に登場しますよ。
今回は、軽くジャブから入ろうと思います。好機とみればストレート・フック・アッパーと行きましょう(なんのこっちゃ!)
 
1980年代から2000年の初期までは、国内の多くのアンティーク家具やさんが1930~40年代のオーク家具をイギリスから買い付けてきていました、(勿論、ジョージアン時代のウォールナット材やヴィクトリアン時代のマホガニー材など値の張るものや、1900年前後のパイン材家具を中心に買い付けている業者さんもいました。)
 
オーク材家具が人気があった理由としては
*買値が安いが意外と高く売れる
*ハッタリが効く外見である(見栄えがするとも表現することもある)
*サイズが日本の住宅事情に合う
*修復がし易いく扱いやすい
*イギリスに行けばいくらでもある ・・・・等々
 
元々は、1600年前後のチューダーエリザベス時代にオーク材を使用した家具や内装材が多く製作されたことで、この時代を家具の歴史的にはオークの時代と呼びます。
勿論、サイズは大きく、重く、家具というより建物の一部の様なイメージです。
又、庶民には無関係だったでしょう。その後、ウォールナットの時代、マホガニーの時代と、現代人がイメージする家具へと変化していきます。その過程で庶民や農夫が加工しやすいパイン材を使用してテーブルやチェアを作り、それらをファームハウステーブルなどと呼ぶようになります。(イギリス家具のザックリした歴史。これ以上の知識は無用でしょう)さて、話を1930年代のオーク家具に戻しましょう。
 
1930年前後のオーク家具はオークの時代のリプロダクションとして作られたものが多かったでしょうが、ご存知の通り世界中で アールデコ が人気を博してた時代ですので、やはり、アールデコのデザインを取り入れたものが多くなっていったようです。
1980年代~2000年ぐらいまでにイギリスでオーク家具の買い付けをした方ならお分かりと思いますが、大規模なアンティークウェアハウスに行けば、見渡す限りオーク家具という
状態で私など、「なんやこれ」でした。
 
あれだけの数を作ったという事は、それなりに人気があったのでしょう。又、当時のイギリス政府が中流階級を中心に住宅の購入を大々的に勧めたため、あの連なった小ぶりな家とオーク材家具のパターンが中流階級のステータスだったようです。1930年代のイギリスの雑誌にはオーク材家具の広告が多く載っています。
しかし、一世を風靡したオーク材家具も1950年代以降は人気が無くなっていき、しかも、いくらでもあるという事から解体して薪にしていたようです。そこに、目を付けたセカンドショップ(リサイクルショップ)などがそれらを1点1ポンドで買いコンテナにつめアメリカにどんどん輸出したそうです。 在庫は無限、アメリカ人大世喜び、俺も大儲け と大規模なアンティークウェアハウスを有するディーラー ジョン が語ってくれました。
 
日本人バイヤーでこの言葉を知らない人も多くいたと思いますが、1990年代でも現地のアンティークディーラー達はこれらのオーク材家具を shipping furniture と呼んでいました。今は、違うと思うとおもいますが?
又、これもディーラーなら知っていることですが、1930年頃にはすでにイギリスでは、
良質のオーク材が取れなくなっており、北海道の水楢を輸入していました。
何故、良質なオーク材が無かったか?・・・・疑問ですよね。
簡単なことです、環境破壊先進国であった グレートブリテン は国土のほとんどの樹木を切り倒してしまったからです。ウィリアム・テル の時代は豊かな森がありクマやイノシシも多くいたようですが、全て 食いつくしてしまい 今はいません。まさしくグレート。
このことも、イギリス人の友人から聞いた話です。
 
 

続く。

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