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The Moonスタッフよりオススメのインテリアや日々のあれこれ

西洋骨董*買い付け*見聞録*11 -【番外編 コーヒーブレイク】

【今回は、いつも更新している「西洋骨董・買付・見聞録」の番外編です。】

 
今回は、コーヒーブレイクタイムとして国内の骨董市に出店したときの国内版見聞録とします。西洋骨董・買付・見聞録に関しては、話が尽きることが無くかなり長丁場となりそうですので、ぽつぽつとコーヒーブレイクやらハッピーアワーを入れていこうと思います。
 
私は、月に1~2度ぐらいのペースで骨董市やら蚤の市などに出店しております。
但し、その様な市に出店しだしてまだ3年位と経験の浅い新参者でもあります。
私は同じアンティークディーラーと言っても、骨董市などに頻繁に出ている 骨董業者の方々 と少し違ったスタンスで仕事をしていました。
どう違うかというと、アンティークをあくまでもインテリア・雑貨の中の アンティーク との位置付けで売買していたわけです。
インテリア・雑貨の流行りに合わせて行く、もしくは流行を創るのが私の仕事でした。
ですから骨董市に出るよりインテリア・雑貨の展示会に出展して全国のインテリアショップや雑貨屋さんに卸売りをしていましたし、ショップでも一般の方々に交じり、多くの同業者やインテリアショップバイヤーなどが仕入れに来ていました。
現在は今まで私が主戦場としてきたスタイルから離れ、私が目指す本来のアンティークディーラーになるべく修行中といったところです。
どちらのスタイルが良いとかではなく、対象とする顧客の違いであり、カッコつけた言い方をすればマーケティングの違いでしかありません。
何故、マーケティングなどとカタカナが出てくるかと申しますと、今回の国内版見聞録に深いかかわりがあるからなのです。
 
私は、前述の通り 骨董市 において新参者ではありますが、骨董市・蚤の市がだ~い好きなのです。理由は簡単。骨董市こそ 骨董オタクの聖地 。売り手も買い手も強者揃いであり、私にとって出店料は 聖地への入場料にほかなりりません。
あれは、1年数ヶ月位前と記憶しています。都内のある骨董市で、とてつもない強者先輩にお会いしたときの話です。(実話)
 
その日、私の売り上げはいつも通り 可もなく不可もなし と問題ない上に多くの強者共と火花を散らすことに満足しながら、近くのコンビニまで行くべく、会場内を歩いていたところ、一人の大先輩(70代)が多くの手裏剣を店先にならべているのを見かけた。
年齢・風貌・温和な表情の奥に光る眼光、全てにおいて 強者 を体現した様な先輩であった。新参者である私は、面識のない大先輩に対して非礼無き様、手裏剣 拝見しても宜しいでしょうか?と声をかけてみた。おお。と先輩。ありがとうございます。私。
そこには、時代劇で忍者が使っている様な各種の手裏剣と刀に付ける短刀型の物が全部で30点位はあったと記憶している。
 
 
凄いですね。全部当時の物ですよね。
 
いやいや これだけは現代物なんだよ。
 
あっそうですか。それにしても沢山お持ちですね。いつもこんなに沢山出してられるんですか? と私。
 
いつもは、こんなに持ってきてねーよ。今日は特別なんだよ。 先輩。
 
お得意が来られるんですか。
 
う~ん。ほら。今日さ。ここで 古武道の大会 あるだろ。
と先輩がイベント会場を指差した。
古武道の大会を見に来る外人さんも多いと予想されるでしょ。ほら。そういう人たち
忍者とか侍とか好きじゃない。ね。
 
あ~。そうですよね。そうだ。そうだ。
 
流石の先輩も 強者 の表情を崩して にやり。
 
 
ありがとうございました。勉強になりました。
とお礼を言ってからコンビニ方面に歩きながら 流石は先輩だ、情報収集・分析・対処
完璧なマーケティングだ。それに比べて、俺はどうだ。強者共に押されてるじゃないか・・・
・・・・・・・・。と先輩に対する賛辞と自分に対する叱咤を心の声でブツブツと。
 
その時である。私は少し離れた壁に KOBUDOU との文字をみつけた。そこには、大会の告知らしいポスターが貼ってあり、内容を詳しく確認すべく近づいて行った私は、衝撃の事実を知ることとなった。ポスターには本日開催のイベントの告知が。
 
 
ロックバンド KOBUDOU のコンサート 18:00 開場
 
 
夏草や強者共の夢の痕・・・・・・・・・・・・・・・・・・。先輩・・・押忍。

西洋骨董*買い付け*見聞録*10

後編
 
前編において、オーク材家具を揶揄した内容に感じた方もおられたと思いますが、けしてそのようなことはありません。
 

何故なら、私自身はオーク材のどっしりとした雰囲気や手触りが大好きで、我が家のダイニングテーブル・作業場においてあるサイドボード・そして私が座るアームチェア(一人掛けソファ)のアーム部分もオーク材です。全てが1930年代の いわゆるシッピングファーニチャ です。すでに15年以上(サイドボードは30年位)使用していますがとても気に入っていますので買い替える気はありません。ちなみにダイニングチェアーは1890年代のマホガニー材です。こちらもお気に入りです。
 
あくまでも、1990年代の日本におけるアンティークブームの中での認識とイギリスでの認識の違いをご説明したまでです。
 
1930年代の家具がアンティーク扱いされていなかった証拠として参考になるのが、MILLER’S ANTIQUES PRICE GUIDE (画像参照)です。念のため1989年版と1993年版を見てみましたが、やはりシッピングファーニチャ達は載ってませんでした。
 


 

17世紀のオークテーブル(画像参照)が目安250万円前後(1990年頃のレート)とあります。
但し、これはかなりコンデションの良い物の場合であり150万円位でもよく見かけました。それにしても300年位前のしかも十分使用可能な家具が200万位とは、お安いのでは?(ご購入ご検討の方、ご相談にのりますよ)
 
1990年代までシッピングファーニチャと称されていたオーク家具も今ではアンティークの仲間入りをしたと言って良いのではないでしょうか。
ご興味のある方はDrewleafTableとかオークサイドボードと検索するとかつてのシッピングファーニチャ達がご覧いただけます。
 
先日、私が代表を務めるアンティークディーラーズクラブのショップ名(現在は実店舗はありませんが)TheMoonのロゴ(画像参照)のデザインをしてくれたパリ在住の日本人デザイナーと食事をしていた時に話の流れの中で彼が、ガレとかドームって日本の家屋に合わないと思うんですけど?と言ったので、それらを買う人達は皆ガレやドームが合う家に住んでいるに決まってんだろ!!!と私。これも揶揄ではありませんよ。
 

 

 
                                  では、また。

西洋骨董*買い付け*見聞録*9

前回まで、私がアンティーク家具・雑貨の輸入・販売をするに至った経緯を書いてきました。
今回からは、時系列をあまり気にせずに1989年からの買い付け時に見聞したことを中心に書いていこうと思います。西洋骨董・買付・見聞録 冒頭にも記述しましたが、あくまでも私の記憶・主観であることを念頭に置いて読んでください。そうでないと、「ほんまかいな」とか、「あほくさ」などと関西のおっちゃん・おばちゃんが頭の中に登場しますよ。
今回は、軽くジャブから入ろうと思います。好機とみればストレート・フック・アッパーと行きましょう(なんのこっちゃ!)
 
1980年代から2000年の初期までは、国内の多くのアンティーク家具やさんが1930~40年代のオーク家具をイギリスから買い付けてきていました、(勿論、ジョージアン時代のウォールナット材やヴィクトリアン時代のマホガニー材など値の張るものや、1900年前後のパイン材家具を中心に買い付けている業者さんもいました。)
 
オーク材家具が人気があった理由としては
*買値が安いが意外と高く売れる
*ハッタリが効く外見である(見栄えがするとも表現することもある)
*サイズが日本の住宅事情に合う
*修復がし易いく扱いやすい
*イギリスに行けばいくらでもある ・・・・等々
 
元々は、1600年前後のチューダーエリザベス時代にオーク材を使用した家具や内装材が多く製作されたことで、この時代を家具の歴史的にはオークの時代と呼びます。
勿論、サイズは大きく、重く、家具というより建物の一部の様なイメージです。
又、庶民には無関係だったでしょう。その後、ウォールナットの時代、マホガニーの時代と、現代人がイメージする家具へと変化していきます。その過程で庶民や農夫が加工しやすいパイン材を使用してテーブルやチェアを作り、それらをファームハウステーブルなどと呼ぶようになります。(イギリス家具のザックリした歴史。これ以上の知識は無用でしょう)さて、話を1930年代のオーク家具に戻しましょう。
 
1930年前後のオーク家具はオークの時代のリプロダクションとして作られたものが多かったでしょうが、ご存知の通り世界中で アールデコ が人気を博してた時代ですので、やはり、アールデコのデザインを取り入れたものが多くなっていったようです。
1980年代~2000年ぐらいまでにイギリスでオーク家具の買い付けをした方ならお分かりと思いますが、大規模なアンティークウェアハウスに行けば、見渡す限りオーク家具という
状態で私など、「なんやこれ」でした。
 
あれだけの数を作ったという事は、それなりに人気があったのでしょう。又、当時のイギリス政府が中流階級を中心に住宅の購入を大々的に勧めたため、あの連なった小ぶりな家とオーク材家具のパターンが中流階級のステータスだったようです。1930年代のイギリスの雑誌にはオーク材家具の広告が多く載っています。
しかし、一世を風靡したオーク材家具も1950年代以降は人気が無くなっていき、しかも、いくらでもあるという事から解体して薪にしていたようです。そこに、目を付けたセカンドショップ(リサイクルショップ)などがそれらを1点1ポンドで買いコンテナにつめアメリカにどんどん輸出したそうです。 在庫は無限、アメリカ人大世喜び、俺も大儲け と大規模なアンティークウェアハウスを有するディーラー ジョン が語ってくれました。
 
日本人バイヤーでこの言葉を知らない人も多くいたと思いますが、1990年代でも現地のアンティークディーラー達はこれらのオーク材家具を shipping furniture と呼んでいました。今は、違うと思うとおもいますが?
又、これもディーラーなら知っていることですが、1930年頃にはすでにイギリスでは、
良質のオーク材が取れなくなっており、北海道の水楢を輸入していました。
何故、良質なオーク材が無かったか?・・・・疑問ですよね。
簡単なことです、環境破壊先進国であった グレートブリテン は国土のほとんどの樹木を切り倒してしまったからです。ウィリアム・テル の時代は豊かな森がありクマやイノシシも多くいたようですが、全て 食いつくしてしまい 今はいません。まさしくグレート。
このことも、イギリス人の友人から聞いた話です。
 
 

続く。

西洋骨董*買い付け*見聞録*8

西洋アンティークとの衝撃的な出会い。- 後編 –
 

フレッドが、私の駆使する 難解至極な謎の言語を、根気よく解読してくれたお陰で私達は、あれやこれや話をすることが出来た。

 

イギリスでのアンティーク事情の入門編は フレッドから教わった。
 
私は、ここでアンティークの輸入・販売をすべきであると確信したため、1分でも早く帰国して、そのことを1秒でも早くボスに報告しなければならないとの使命感がふつふつと湧き上がるのを感じため、その夜は 早く朝が来ないかと なかなか眠れなかったのを今でも覚えている。ようやく朝になり眠そうな顔押した K氏 を叱咤し、飛行機の出発5時間前には空港に到着していたように記憶している。
 
とにかく、早く帰りたいの一心であった。(あほやな)
 

空港では多くの商品サンプルを詰め込んだスーツケースが重量オーバーとなり追加料金 300ポンド(当時75,000円位)を請求されるという予期せぬ事態に遭遇したが、関西弁英語バージョンを駆使して、エアロフロートのレスラー体型おばちゃんを相手に減額交渉。どうにか50ポンド(12000円位)で手を打った。 関西弁 すごいですな。
 
いよいよ、搭乗時間 のアナウンス。1分でも早く帰りたい私にとっては 待ちに待った 瞬間である。意気揚々と飛行機に乗り込み、早めのシートベルト着用、あとは離陸を待つのみの状態になり安心したのか、不覚にもうとうとしてしまった。ふっと目が覚め腕時計を確認すると、すでに離陸時間を過ぎてるではないか。
これは悪夢かと思いボーとしていると、よくわかりませんけど離陸 遅れるみたいなこと言ってましたよ。横に座っていたK氏。
なに~。と思わず K氏 をにらみつける私。
 

結局。離陸したのはその2時間後であった。さすが、エアロフロート やな。
 

紆余曲折を経て、ようやく ボス に出張での成果報告にたどり着いた私。
数社の商品を輸入したい、又、数社に関しては大いに検討すべしとの私の報告に 満足げにうなずき、すぐに動くように指示を与えてきた。ボス。
そして、機は熟したと、 アンティーク家具の輸入・販売に商機あり。
いち早く行うべし。と自信満々に進言する私。
 

何?アンティーク家具?はあ?時差ぼけかこいつ? というような表情の ボス。
しばらく 睨みあいが続き  ダメ の一言を発するボス。
 

はあ~~。5時間前のヒースロー空港到着、早めのシートベルト着用が水の泡となり
唖然とする私。
 

その後、1年間の 睨みあい いやいや実績が実り、アンティークやってみろよ。
とボス。
1990年 吉祥寺のアンティークショップ ジュビリーマーケット のスタート。
 

サラッとかたずけるはずがダラダラと長くなった どうでも良いこと   完
 
 

西洋骨董・買付・見聞録 はぼちぼちと続きます。

西洋骨董*買い付け*見聞録*7

西洋アンティークとの衝撃的な出会い。- 前編 –
 

私が西洋アンティークの輸入・販売をするに至った経緯(どうでも良いことですが)は今回が最後になります。
次回からは、年・時・場所にこだわらず、思い出したエピソードをランダムに書いていこうと思っております。
という事で(どうでも良いこと)をサラッと片付けてしまいましょう。
 
1989年4月 ロンドンでの初仕事は、まずまずの成果が得られた。
大英博物館も堪能できたし、残すはアンティークマーッケト見物と洒落こむか。と意味の分からんことをK氏に行ったところ、案の定 ???はあー???と こういう場合に使う
表現か? 洒落こむ ・・・? まあ、この様な表情をしていた。
 
という事でとにかく(おそらく日曜日の朝だったと思う)カムデンマーケットに行った。
*現在カムデンマーケットがどうなっているかは知らない。おそらくアンティークの売買は行われてないと思う。1989年でも旅行雑誌にはアンティークマーケットと書いてあったがアンティークは ステイブルヤード 近辺のみであった。もう25年も足を踏み入れていない。
 
そんなカムデンでも、私にとっては衝撃的な出会いがあった。
ステーブルヤード付近で アンティーク家具を売っていたので どれどれ えっ うそ そうなの なんで・・・と。東京の西洋アンティークショップで売られている同等の家具
が30分の1以下・中には50分の1の価格の物も、勿論、国内のアンティークショップでは、修理等のメンテナンスを施し、日本人好みに仕上げてあり、加えて買い付けや輸送のコスト・倉庫代・店舗にかかる費用・人件費…等々が含まれているのはわかる。しかし、それにしても 儲けてはるな と元関西人の私は心の中で叫んでしまった。
 
*余談ではあるが30年前にはまだ関西弁が喋れた、又、頭の中では 関西弁が70%位を占めていたと思う。現在はほとんど喋れないため、親戚からは 東京に魂を売ったな と言われている。
 
 
その時である、一人の若者が目の前でおそらく100年ぐらい前の物と思われるパイン材のベンチボックスを購入、そしてそれを ひょいと 肩に担ぎ持ち帰ったのである。
その瞬間 これや これやがな はよせんと とまたもや心の中で叫んだ。同時に幼少時代、骨董関係の仕事をしていた祖父と骨董市や道具市に出入りしていた頃の記憶が鮮明に蘇ったのである。
そんな私の表情に興味を持ったのか、もしくは私の心の声が少し漏れていたのか、 ハローと小太りではあるが、気の良さそうなアングロサクソンであろうと思われる、フレッド が話しかけてきた。フレッドはパイン材アンティーク家具を専門に扱うディーラーでこの場所を店舗として借りている人物であった。。。
 
 
次回へ続く。。

スチュアート ダウジー との出会い 後編

西洋骨董*買い付け*見聞録*8
スチュアート ダウジー との出会い 後編

 

 

私が、アンティークディーラーとして歩むことを決定的にしたのは、何といってもスチュアートとの出会いから始まる。その時の事は、今でも克明に覚えている。

 

眼鏡店地下のオフィスを訪ねた私とK氏を出迎えてくれたのが スチュアート・ダウジーであった。当時49歳(ちなみに私は、30歳)・身長も高く(190cm)ガッチリとした体躯に紺のスーツ・白いピンドットのやはり紺のネクタイを締め、日本人のそれとは違うが、丁寧なお辞儀をして 「スチュアート・ダウジーです宜しくお願いします。」 と流暢な日本語で挨拶をしてきた。

 

当然であるが、この様な状況である以上こちらも ナナナイス・トゥ・ミイーイトゥ・ユウー・・・などと 私が考案した 謎の言語 を話す必要がないと判断し、初めまして仲山です。 と答え握手をしたのである。

 

彼は、1960年代にヒッチハイクでトルコまで行くつもりでイギリスを出た。お決まりのコースであるインド・アジア諸国をめぐり日本を経てカナダに行くという事になったのだが、日本で 碁 に出会い嵌ってしまったそうである。

 

そして、いわゆる大和撫子???にも嵌り、結婚・娘を授かるが離婚、結局カナダに行くことなく8年程日本で暮らし、NHKの囲碁番組にも出演・外国人向けの囲碁雑誌社設立、私やK氏より正しい日本語を話すことが出来た。

 

私も、小学校高学年からスチュアートが実践したヒッピームーブメントに影響を受けて育ち、大学卒業後、就職もせず外国をほっつき歩いていた経歴の持ち主の為、そんなことなど知らずとも、お互い 同じ人種 の匂いを嗅ぎつけ直ぐに意気投合したのである。

 

その後、私の親友となる、北イングランドで名を馳せたアンティークディーラー、トニー(他界)や一緒にベルギーやフランスに Buying Trip に数十回行くことになるアランも同じ 人種 である。しかし、スチュアートとアンティーク業界にどっぷり浸かることになるのは、この後1年数か月後の事である。

 

但し、この時は、1990年代にイギリスで名を馳せた、 エマー・ブリッジウォータ との契約の他、多くの収穫があり、2年後に、私が所属していた会社が多額の投資をしてくれ、ジュビリーマーケットを立ち上げることにつながったのである。

 

次回へ続く。。

スチュアート ダウジー との出会い 前編

西洋骨董*買い付け*見聞録*7
スチュアート ダウジー との出会い 前編

 

 

1989年春にロンドンに向かった最大の目的は、私が所属する会社が海外の家具・雑貨の直輸入を本格的に展開するための現地調査、及びトライアル仕入れであった。
*当時はまだ家具と雑貨の両方を扱うShopはあまりなく、1980年代後半から
俗に言う 雑貨ブーム が始まる。

 

しかし、それまでにも社長をはじめ当時の会社幹部がアメリカ・ヨーロッパに同じ目的で渡航していたが、全く進展がなく経費の無駄遣いとなっていた。
そこで、私が謎の言語を駆使する事と、海外生活の経験のある事から 英語が話せる と
おっちょこちょい な結論を導き出した社長が 「何か探してこい」と訳の分からないことを言いだしたのである。勿論、私にとっては 千載一隅の好機 であったため、何故、先輩方が結果を出せなかったのかを探ることにした。

 

先ず、言語能力(通訳を雇ったので問題ない)。
次に、何かを探せ は非常に難しい。情報収集力の問題。センスが無い。時代が読めない。
プライドが高いのか低いのか、下手でも、間違っていてもお構いなしに、相手とコミュニケーションを取ろうと努力しないのであろう。等々、色々考えてみた。
そして、今のようにネットのない時代に効率よく情報を収集しかつ現地の業者と上手にコミニケションを取るには現地人(この場合イギリス人となる)と組めばよいと結論付けた。

 

幸いに、私の当時の顧客に成城にて眼鏡店を営む方がおられ、なんとその方がロンドン支店を出店したとの事。しかも、ダンヒルなどのブランド眼鏡を日本に輸入するために日本語が堪能なスッタフがいるので何か必要があればお手伝いするよ。と言ってこられたのだ。
元来、ツキ がある私ではあるが、この時は 来たな と確信した。
そして、ロンドンのハノーバストリートの眼鏡店オフィスにて、その後、盟友 となる
スチュアート と会うことになる。

 

*ここ数年は疎遠となっております。3年前にスカイプで爺さんとおじさんが見つめあいながら会話をしたのが最後です。あまり宜しくない光景でしょ。桑原桑原

 

次回へ続く。。

西洋骨董*買い付け*見聞録*6

ロンドン到着の翌日は、自社で輸入をしていた英国家具オールドチャームシリーズのメーカーである、ウッドブラザース社にK氏を引き連れ訪問したところ、アジア担当の営業マンで名前は忘れてしまった、確かロジャーとか、何とか。
彼の訪日の際はいつも昼食を共にしたが、あまり仕事の話をした記憶はない。何を話していたのだろう。
仕事の一環 と称しいつもビールを飲んでいたことだけは覚えている。
その彼が、3日前に退職したとのこと、ヘッドハンティングされたそうだ。おそらく優秀な人物だったであろう。おそらく・・・。
 
という事で、ロジャーの上司(以下上司)が工場案内をしてくれた後、年内発売予定の新製品の紹介や我々の要望についての話し合い・・・等々。
特に記述するに値することもない。
そもそも内容も覚えていない。
しかし、一番の謎は、私の何語かも良く分からない 英語? でよくも2時間ほどの時間ビジネストークが出来たものだ。我ながら感心する。やれば出来る何事も!!
おそらくは、双方とも半分くらい理解出来たという事であったのであろう。
問題なしだ。
 
その後、車で駅まで送りがてら、パブでビールでも飲もうと上司のご提案。
真面目な私は、仕事の一環 である以上お断りすることは許されないと、YES。
K氏は酒が飲めないので、おそらくジュースか何かをのんでいたと思われる。
私と上司は店の人のお勧めビターを注文。当時の私はラガーの方が好みではあったが、イギリスに来るたびにビターの味にはまっていくことになる。
渡英回数は150回位なので今ではすっかりビター派である。
 
そして、私が操る謎の言語 と 上司の英語 による謎の会話が1時間ほど続いた。
K氏?英語も謎の言語も出来ない彼は3時間ほど無言を貫いていた。すごい忍耐力である。
 

次回へ続く。。

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